デス・ストランディング 考察18 クリア後の感想

ネタバレあり。ゲームクリア後にお読みください。

デス・ストランディングとは何か?

 「小島秀夫さんの私小説」小島さんのパーソナルな部分、つまり内面を綴った作品ということです。ゲームのテーマはアメリカの分断を再び繋ぐこと」

真のテーマとしては「自己再生」です。この自己再生に共感できるか否かが評価の分かれ目。アメリカの分断というテーマから自己再生へテーマが切り替わります。

作品の謎の部分であり、ゲームプレイヤーを繋ぎ止める作品のキーワード、つまりは、プレイヤーと作品との接点を結び目と例えるならば、ビーチデス・ストランディングラストスタンディングとは、「心ここに在らず」といった小島さん個人の孤独な心情を覗き見る場所を指します。

 

キャラクターと物語性

 アメリ、クリフ、サム、フラジャイル、ヒッグスは小島さん自身を投影したキャラクターです。台詞は小島さん自身が普段思っていることを言葉にします。つまり、小島さんの内面を形にしたキャラクターということです。台詞ひとつひとつは割愛しますが、御自身で確認していただければ理解出来るかと思います。

 

 ブリジット、ダイハードマンは創作者(制作者)としての小島さん個人の表向きの顔を投影したキャラクターです。仕事をする過程で目標設定をし、それに至るまでのスケジュール管理、取りまとめたものを部下に落とし込む。ときには厳しい決断をしなければいけない場合もある。劇中でもキャラクターは厳しい決断を強いられる。ブリジットとダイハードマンが仮面を被っている理由は、誰しもが社会に出れば自分を押し殺して別人を演じているさまを形にしたもの。

この仮面と同じようにサムやヒッグスの黄金仮面はプレイヤーへの問いかけ。ヒッグス曰く「お前も仮面を被っているんだろ」

 ダイハードマンの本名はジョン〇〇。栄養ドリンク飲んでハードスケジュールをバリバリこなして仕事している小島さん自身です。小島さんのTwitterを見ていていつも感じるのですが「栄養ドリンクばっか飲んでないで飯を食べてね」「サンドイッチばっか食べてないで米を食べてね」ってお母ちゃんのように思ってしまいます。私達も「しんどい」「辛い」「忙しい」と思いながら仕事をしています。大人であれば、そういった気持ちや感情は隠します。その表れが仮面として表現しきれていないのが残念。

 ブリジットとアメリにいたっては小島さん自身の二面性を表しています。

表現者/創作者/制作者/経営者としてのブリジット。

小島さん自身のパーソナルな部分のアメリ。これは本人しかわからないもの。

ダイハードマンがサムに落とし込む「アメリ奪還」とは、小島さん自身のパーソナルな部分(孤独感)。つまり、誰も理解してくれない苛立ちの表れであり、「救い」なんです。

それが顕著表れているのがキャラクターとの関係性。小島さんが心を開けるデッドマンとハートマン。そしてプレッパーズのみという小島さんの人間関係が、そのままゲームに落とし込まれています。

アメリとは「この孤独感から救って欲しい」と願っているさま。「この苦しみは誰も理解できないだろう」という誰しもが経験するパーソナルな部分。つまり、最大のミッションは小島さんを救うということ。

 

 ストーリーは、東海岸からロッキー山脈までの道のりの過程で「アメリカの分断を再び繋ぐ」ことをテーマとして描きます。カイラル通信を繋ぐことが描かれているのですが、アメリカの分断の諸問題が一切出てこないのです。ロッキー山脈を越えると「アメリ奪還」が、より色濃くフューチャーされていきます。

サム曰く「アメリカを再び繋ぐなんかどうでもいい。アメリを救う」とメンバーに宣言します。アメリカを描くことではなく小島さん個人を描くことにテーマが切り替わります。

アメリカが抱えた「分断」問題が置き去りになります。分断を再び繋ぐとは、サムがカイラル通信を繋ぐことで完結しており、分断をまねいた諸問題の問題提起や回収のことではなくなっているのです。カイラル通信は繋いだものの「分断」のテーマを回収していないのです。カイラル通信で人を繋ぎ「いいね👍」を貰う。SNSの要素の良い部分だけで終始している。「分断」をまねいた「移民問題」「誹謗中傷」「ポピュリズム」「性差別」「格差」「宗教」「宗教がらみの中絶撤廃」と様々な問題点は一切描かれません。

「分断」という言葉の重みよりも「個人の想い」が優っていることがサムによって発せられるのです。その後の展開は、小島さんの脳内宇宙を描いた怒濤の展開となります。

 

 デッドマン、ハートマンも小島さんと同じ創作者(制作者)。デッドマンの体は70%が別の人体でできている。小島さん曰く「僕の体の70%は映画でできている」と被ります。ハートマンも特殊な体質。2人の共通点は映画監督であり制作者でありアーティスト。彼らが不完全な体であることは、物作りで身も心もボロボロになりながら魂削って制作しているということの表れです。小島さん自身も物作りの方なので2人との共通点を共有しているということです。ここでも自身を重ね合わせたキャラクターとして表現されています。この2人の設定は「驕り」(おごり)が垣間見えます。

 

 プレッパーズは、小島さんの物作りの孤独感を理解してくれる方々です。映画監督やアーティストや漫画家、タレントや編集者。小島さんの良き理解者ということです。つまり、愚痴を聞いてくれる人です。こういうパーソナルな部分は、あからさまにしないほうがプロだと思うのですが、あえて見せているのは何か意図があるのでしょうか? 自身を曝け出すのであれば身近な人を描いてこそだと思います。つまり、小島さんにとって最大の心許す人達、良き理解者とは、コジマプロダクションのスタッフだと思います。YESマンだけではないと思うので良くも悪くも自分の暴走を止めてくれる最大の理解者だと思います。…っであるならば、小島さんの気心知れた方を描くのではなくブリッジズのメンバーとの接点を描くべきです。「ブリッジズとコジマプロダクションのスタッフなんか関係ないやんけ」と言われれば、それまでですが、登場キャラクターが小島さんの私的な人間関係が反映していると感じるので、スタッフも描かなければ嘘になります。スターウォーズスタートレックギャラクティカは組織を描くことで物語に厚みが出ています。ゲームオブスローンズは人間を描いています。デスストランディング ではイゴールだけがブリッジズメンバーとして登場します。巨大な組織なのに、ただ1人しか描かれていません。共同体を描かずして組織は語れないと思いますし、組織を描かずして人間は語れないと思います。プレッパーズをリバタリアンとして突き離した存在で描きブリッジズのメンバーを描くべきだということです。これを怠ったことで物語性や人間としての厚みが失われています。

でも、スタッフが出たがらず、それをルーデンス人形に託したのかもしれません。プレイヤーも含めてなのでしょう。

 

 キャラクターで理解できないのがママーです。女性を描きたかったという意図は掴めるのですが、キャラクターの積み重ねができていないので感情移入できなかった。展開が早いので私がママーのキャラクター設定について行けていないのかもしれませんが、ママーという表層的な女性像にママーの双子の妹〇〇という小島さん個人の内面が表現されているキャラクターがひとつに重なるのでキャラクターの魅力が半減しているように思います。

ママーに関しては、誰かが理想とする女性像をなぞるだけ。ハッキリ申し上げて女性を描いていない。

当初、ママーは亡くなった子供と繋がっているという設定。劇中で亡くなった子供との最後の別れをデスストランディング という世界観で描くのであれば納得できるのです。ここまででいいのです。ストーリーを進めるとママーは亡くなっていてBBと繋がっていることでママーの魂が肉体を繋ぎ止めているということ。その後、ママーの魂が宿っていない抜け殻となった肉体をハートマンに運びます。ハートマンは死んだ肉体なのに体消滅しない理由を探りたいからママーの肉体を持ってこいとサムに依頼するのです。私がサムなら拒否するでしょう。無視して供養します。

子供を産む喜びや産めなかった悲しみを描くのでもなく、肉体を持たない母親を描くことで何を伝えたかったのかが理解できなくなります。

 ママーの魂と肉体はBTとなった子供によって繋がれていた。劇中では、女性や母親を個人として描いていないのです。単に、子供がいるから母親であり肉体を持ち、子供と繋がりを絶たれれば母親ですらなくなり、あとは死が待つという印象だけが残ります。その死んだ肉体を運ぶ理由が何なのかが明確ではないのです。体消滅の謎を解く鍵になるからと。だから何?ってなります。ママーの魂が肉体を離れ双子の姉妹がひとつになるのも母親や女性を軽々しい存在として誤解を与えかねない表現です。しかも、死んで魂のない体を運ぶだけの作業は、女性を子供を産む道具のような印象を与えかねない表現となっています。子供がいなくなれば母親ですらないのかと思ってしまいます。結果どうなろうと母親は母親であり自立した女性でもあるわけです。ここを描ききれていない。子供を産みたくても産めない女性もいます。結局、ママーとは子供を亡くした可哀想な女性で終わっています。ママーで何が言いたかったのかがわからないままなのです。女性に失礼ですし母親にも失礼です。ここは大きなマイナス点です。

 

キャラクターに関しては全体的に深みがないのが残念。個人として客観的に描かれていません。人間を描ききれていないということです。

 

ストランドシステム

 SNS要素でもある「いいね👍」は嬉しいものではあるが、「いいね👍」貰うことが幸せかといえばそうではないと思います。否定的な行為も必要です。それと同時に悪行を受け入れてこそ善行の価値が理解できるのです。表層的で上っ面な世界観構築では友人にはなれない。そこを「いいね👍」で描くべきでした。単に知り合いが多いだけになっています。これは誰しもが理解していることです。今更言われなくてもわかっとるということです。故に、この議論は制作中に議論があったと思うのですが?(議論したのでしょうか?)「いいね👍」だけにしたことで失ったものは大きいと思いますよ。世界観やストーリーの深み、人間関係は今以上に上っ面な部分だけを残し、作られた優しさに喜んでいるだけの嘘の世界になってしまいます。

劇中でアメリが全て嘘だと言います。「いいね👍」も嘘であるべきなのです。

ただし、システムにチャット機能を搭載すると、誹謗中傷の嵐の中に放り出されてしまい地獄と化します。これを避けたかったという意図は掴めるのですがSNS機能のバランスは良くも悪くも調整してほしかったですね。この「いいね👍」機能だけではデメリットでしかない。飽きも早くなります。

 

専門用語と装備。武器。そしてBB。

 小島さんのゲームの魅力は操作性と世界観。それを構築しているものが独特の専門用語と装備と武器。人を殺めない工夫にも魅力を感じます。今回のデスストランディング も同様です。

ただし、専門用語を理解していないままクリアした者としては、振り返ろうと思わないのです。飽きるということです。過剰な説明と膨大な情報量が最大の敵になってしまっているのがマイナス点。ゲームを進めていくと各キャラクターの説明が鬱陶しくなってくるのです。本来、この世界観で鬱陶しくなるはずのBTよりも過剰な説明のほうが世界観を表層的な軽いものにしてしまっています。世界観は感じて味わうものです。突き離してもいいわけです。媚びる必要もまったくない。だからこそシンプルでなければいけません。いっそ複雑にするのであれば、キューブリックのように、とことん難しくしましょう。ただし本人しかわからない世界観では途中で萎えてしまいます。

 故に、喋らないBBに人間味を感じてしまいます。

 

 

メインミッションとサブクエス

 配達をメインにした理由は、何かを届けることで人の優しさに触れるということ。野心的なゲームと感じますがそれ以上の喜びはない。喜びを分かち合うことではなく、もはや按配ですらない。上っ面な世界が、今以上に広がるだけです。

悪行もさせなければ優しさなんかわからない。綺麗事で済ますのは簡単だが現実の社会がクソなんだから悪行をさせて改心させなきゃ意味がない。

 聖書でも物を盗んだり人を殺めることが書かれています。メインミッションで聖書や仏教を引用しつつ悪行や善行をさせて、後まわしにしがちな配達忘れてませんか。実は重要なんですよ。インフラもよろしくね。…くらいで留めてほしかったですね。ただ野心は感じます。

ゲームなのでゲームをプレイさせることが重要だとは思うのですが、配達ばかりではバランスが悪くなります。

 

総括

  デス・ストランディングとは何かと言われれば、「小島秀夫ゲーム」と答えます。メタルギアは「世界観を楽しむゲーム」と答えます。

 

「内省的な何か」がダメかというと全くそうは思いません。内に向かうのであれば、とことん掘り下げるべきです。自身のパーソナルな部分をゲームで前面に出すのであれば、革新的です。「デッドプール」のように自虐的にやれば楽しんでもらえたと思いますよ。アメリが歌う「ロンドン橋落ちた」や自虐は「嘘です」「冗談です」ジョーカーのようなものだと笑い飛ばしてくれたと思うのですが、もっと曝け出してもよかったのかなと思います。それを成し遂げたかったのが「P.T.」なのかと思うのです。デス・ストランディングではパーソナルな部分はサブ要素として触れる程度でよかったのではと思います。精神が内側に向かっていくことで、より複雑になるストーリーは万人受けしません。革新的かというとそうではなく、野心は感じるが内省的な何かという印象しか残りません。

 アメリカの分断は、閉じてしまった世界です。デスストランディング は、さらに内に閉じる世界。考え方が逆なんです。アメリカの分断が閉じていることなのですから、その壁を破壊し外へ開いて広げていかなければいけません。「いいね👍」だけでは解放されません。ここを勘違いされているように思います。

 

原一男「極私的エロス 恋歌1974」は監督個人を描いた傑作ですけども、ここまで曝け出すには勇気が入りますし、ここまでやれとは言いません。ただ、映画監督という職業は、ここまで曝け出すくらいじゃないと務まらないのかと教えてくれた素晴らしい作品だということは言っておきたい。

表現者である以前に、その題材に対しての責任を負う覚悟があり、その題材に人として真摯に向き合うことが重要」なんだということを教えてくれた作品です。原一男監督の作品は一貫して人と真摯に向き合っています。これは、考察①でも述べたケン・ローチ監督や是枝監督も同様です。

デス・ストランディングで「アメリカの分断」をしっかり描いてますか? 私は全く描かれていないと思います。アイデアは素晴らしいのに勿体無いですね。

社会問題を描くのであれば、日本の問題を描くべきです。自国の問題を描かずして海外の諸問題は語れません。全て繋がっているのです。これが本来の紐であり棒だと思います。評価が分かれる理由もここにあります。中途半端に社会問題を描くなら当事者に失礼です。テーマがなんであれ真摯に向き合うべきです。

 

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 小島さんの作品をプレイして感じるのは押井守監督との共通点です。それは「監督自身の内面」を描いているということです。それが顕著に現れているのが「イノセンス」です。映像の斬新さと個人の内面を描いている作品です。各キャラクターの台詞は全て押井守なんです。独り言のような自問自答。過剰な説明の台詞。わかる人にはわかるが、わからない人には全くわからないもの。駄作と言っているのではありません。小難しいということです。結局何が言いたいのかは本人しかわからないというジャンルなんです。つまり、「極私的、脳内宇宙」

 デス・ストランディングとは、非常にパーソナルな内容でサブテキスト的な運搬作業を遊びのカテゴリーに押し上げた素晴らしい作品には間違いない。言っておきますが高評価ですよ!!!